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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第1節 陽だまりの涙 [1]




 初めてのキスは冷たかった。まるで唇に霜焼ができるかと思うほどだった。バカな事をしたと思った。
 相手はそんな陽翔(はると)など気にする様子もなく、ただ無表情に、いや少し微笑みながら、宙のどこか一点を見つめていた。
 当たり前だ。相手は氷像なのだから。
 両親に連れられて訪れた北欧の田舎の氷祭り。英語を交えた外国語で周囲と交流する両親は実に楽しげで、だからこそ逆に孤独を感じた。
 両親は何度もその地を訪れているようだが、陽翔は初めてだった。知り合いもいない。言葉もほとんど通じない。孤立して当然だった。黙って両親のそばを離れた。
 一人で祭りの会場をさまよった。周囲が華やかに楽しめば楽しむほど、陽翔の気持ちは塞いでいった。自然と顔は俯く。一人の女性が話しかけてきた。だが、何を言っているのかはわからない。陽翔は後ずさりし、そして最後には背を向けて走り出した。
 寂しそうにしていたら、声を掛けられてしまう。
 陽翔はできるだけ顔をあげ、周囲の氷像に興味でもあるようなそぶりをしながら会場の端まで歩いていった。
 会場の中央から離れるにつれて、人もまばらになってきた。そもそもすれ違いざまに肩がぶつかるというほど混みあっていたワケではない。会場の隅の方は、ほとんど人もいなかった。同時に、飾られている作品の質も落ちてきた。
 あぁ、これは妖精だな、などと理解できるのはまだマシな方で、中にはゴツゴツとした氷の塊にしか見えないものもあった。
 子供の作品かな。でも、俺でももっとマシなのを造る。
 冷めた気持ちでチラチラと視線を投げながら一番隅まで来た。そしてそこで立ち止まった。
 女性だ。
 それはわかった。
 氷で造られた長方形の台に、女性の像が仰向けになっている。胸の上で両手の指を絡ませ、顔はまっすぐに上を向いている。プレートになんと書かれているのかはわからない。後で母親に聞いたら、眠り姫というタイトルだった。
 だが、陽翔には眠っているようには見えなかった。その目はハッキリと見開いており、下手ながらも瞳までちゃんと作ってあった。
 宙の、どこか一点を凝視している。
 ここは会場の端っこ。もう先は無い。来た道を戻るだけ。
 陽翔はしばらく立ち止まり、気まぐれに眠り姫の顔を覗き込んだ。
 彼女とは、視線が合わなかった。向き合っているはずなのに、なぜだか彼女の視線は陽翔を見ていない。いろいろな角度で試してみるが、どうしても彼女とは視線が合わない。
 まるで彼女の方が、陽翔の視線を避けているかのよう。
 私を見ないで。私に構わないで。こんなに醜くて出来も悪くて、会場の隅っこに忘れられているだけだから。
 私に構わないで。そんなにジっと見られると、余計に虚しくなるじゃない。
 陽翔には、彼女の気持ちが理解できた。
「ボク、一人?」「迷子?」「どうしたの?」そんな言葉を掛けられれば掛けられるほど、寂しさと孤独は募ってゆく。
 放っておいて欲しい。
 陽翔は彼女を愛しいと思った。
 君も、寂しいんだね。
 そっと唇で触れてみた。好意を示す時に西洋人が当たり前のように行う行動だ。だから陽翔は、彼女の寂しさを慈しむようなつもりで触れただけだった。
 とても冷たくて、唇に霜焼ができるかと思った。彼女の瞳を覗き込んでみても、相変わらず視線は合わなかった。宙のどこか一点を見つめたまま。
 彼女は、陽翔を受け入れてはくれなかった。
 バカな事をした。
 小学一年生の少年の胸に、後悔だけが冷たく残った。



 陽翔はイギリスで産まれた。だが、一歳の誕生日は日本で迎えた。
 母親はイギリスでガーデニングを学び、日本ではグリーンアドバイザーとして活躍している。忙しく、陽翔の世話はベビーシッターに任された。だが、世話の仕方や、時には料金の問題でトラブルが続き、数人を雇ってはみたものの、満足できるベビーシッターには出会えなかった。そこで日本にいる実母に育児を頼む事にしたのだ。岐阜の田舎で一人暮らしをしている女性が、孫との生活を嫌がるワケがなかった。
 陽翔は一人、日本に来た。連れてきた母親は三日でイギリスへトンボ返り。
 イギリスで製茶会社の重役として働いている父親も、そして母親も忙しく、両親に会えるのは年に数回だった。だが、だからと言って陽翔をすっぽかして仕事に没頭していたワケではない。その証拠に、陽翔の小学入学の時期が近づいてくると、特に母親は頻繁に陽翔の元を訪れるようになった。
「イギリスの学校へ通わせるわ。こんな田舎の学校では教育に不安を感じるもの」
「田舎のどこが悪いのよ。教育のどこに不安を感じるのか、もっと具体的に言ってみなさいよ」
 イギリスや、日本でも関東や関西といった賑やかな場所で活躍している母親にとって、華も教育的実績も無い岐阜の公立小学校など大した魅力も感じなかったのだろう。だが祖母としては、ここまで育ててきたという強みがある。
「今まで子育てを人に押し付けておいて、手が掛からなくなった頃に取り上げるなんて、そんな都合の良い話が通るとでも思っているの?」
「別に押し付けていたワケじゃないわ。お母さんだって嬉しそうに引き受けたじゃない」
「そりゃあそうさ。可愛い孫だもの。今さら手放せるかいっ」
 どちらも引かなかったが、結局は父親が間に入り、今までお世話になったのだからという理由で日本の学校に通わせる事となった。
 母親は諦めなかった。事あるごとに陽翔を訪ね、イギリスやその他の国々へ連れ出した。だが、どこの国でも、陽翔は馴染めなかった。
 そもそも、両親との間に気心の知れた会話ができない。離れて暮らしていた両親に対して距離を感じてしまうのに、その二人が紹介する人々となど、親しくなれるはずがない。
 英語はカタコトには話せるが、言葉を話す事ができれば人間関係を構築する事が出来るというワケではない。やがて陽翔は、母親の誘いを嫌がるようになっていった。
 あんなつまらない場所を連れまわされるなんて、嫌だな。例えば、北欧の氷祭りとか。
「嫌がるのに無理に連れまわす必要はないだろう」
 祖母の言葉にも母親は食い下がった。学年があがるにつれて、今度は陽翔の成績が論点となった。
「こんな成績じゃあ、大した高校へも行けないわ」
「まだ小学生だよ」
「何言ってるの。高校受験や大学受験は小学校からの教育で決まるのよ。だから塾に通わせてって言ってるでしょう」
「陽翔が行きたくないって言ってるんだから仕方がないだろう」
「そんなふうに甘やかしてるから我侭言うのよ。行かなきゃならないものは、嫌でも何でも行くのよ。塾へ行かせないならイギリスへ引き取るわ。陽翔の教育はお母さんには任せられない」
「何だって? 誰がお前を育てたと思ってるんだよっ」
「お母さんが大した教育もしてくれなかったおかげで、私がどれだけ苦労したと思ってるの? 英語なんて大変だったんだからね」
 悪びれもせずに口にする。
「陽翔の学校はまだ英語の授業はやってないんでしょう? ねぇお願いよ。せめて英語の塾にくらいは行かせて。小さい時に始めれば、絶対に将来得をするんだから」
 娘が英語で苦労した事は母親も知っている。だからここは祖母が折れた。だが、遠く離れた大手の塾へ通わせるのは躊躇われた。帰りが遅くなっても祖母では迎えに行けない。そこで、近くのマンションで個人的に開いている英語教室へ通わせてみる事にした。
 陽翔は憂鬱だった。小さい頃から祖母に囲われるようにして育てられてきた彼は、同年代の子供とも、上手に付き合う事ができないでいた。
 幼稚園から帰って友達の家へ遊びに行こうとしても、お菓子があるから一緒に食べようなどと言っては、出かけるのを引き止めた祖母。
 小学校にあがってすぐ、寄り道をして帰るのが一時間ほど遅くなった事があった。祖母は大泣きした。近所中や学校にまで問い合わせの電話をし、騒ぎになった。
「お婆ちゃんを泣かせるんじゃない」
 皆が陽翔を詰った。寄り道も、そして友達と遊びに出かける事もできなかった。







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